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平らかに安らかに

 投稿者:  投稿日:2017年12月 3日(日)15時30分35秒
返信・引用
    ようはぼくの夢はここに尽きる、揺ぎ無い自信もそこから生まれる。
外にはない、心の中にある。
それなら、世間が、世界がどうであれ、右往左往することはない。
結局、穏やかな心に屈するしかないのだ。
ぼくはそれを願いながら、それを疑って来たのだろう。

  確信めいた思いが芽生えている、そして、よいことが次々に起きてきている。
そう、信じられるようになってきた。
ぼくはぼくを信じていい!
 

追われるような

 投稿者:  投稿日:2017年12月 2日(土)09時32分2秒
返信・引用
    そんな気分が消滅していっている。
この手触りを忘れまい、なぜ、そうなってきたかも承知している。
この悟りを手放すまい、とそう決意している。
 

満たされている

 投稿者:  投稿日:2017年12月 1日(金)09時52分39秒
返信・引用
    庭をみていると、満たされた気分になる。
100点満点と言おう。
完全なんてないのだし、もっといいものがあっても、そんなことは別のことだ。
それと同じことだ、人生も日々じぶんを尽くしていれば、それでいいし、それで
完全なのだ。

 ぼくはもう反省などしないことにする。
偉大な力がいつもぼくの中にある、そのことを実感できるようになってきた。
なんでもできるのだ、なんにでも答えがあるのだ。
多少の忍耐と努力で、目の前に現れる。
長いなが~い、放浪の末についに見出したのだから、こんな嬉しいことはない。

 答えはつまり、満たされている、その中にある。
どんな条件であっじつは満たされている、そのことに気づく人は少ない。
ぼくもそうだった。
そこにこころの安らかさもあり、穏やかな言動も表れる。
追い立てられるような人生には終止符だ。

 この悟りを決して手放すまい、2度と手放さない、そこから、明るい展望も
拓けてくる。未来は明るい。
正味の楽天主義を身につけたのだ。
 

自己意識

 投稿者:  投稿日:2017年11月29日(水)11時02分32秒
返信・引用
    いま、宇宙意識なる本を読み始めている。
分析的でしんどいものだが、面白い。
 さて、ぼくの特徴は内省にあるだろうと、そう思っていい。
具体的な目標を持たなかったことなど、その表れだろうと推測される。
実際的なこと、具体的なことに関心がないのではない、その反対でさえある。
しかし、生涯をかけて、あるいは全身全霊をかけて目指すものではないと感じて
いたから、目標のない人間と錯覚してきたのだろう。
 世間ではそうではないからである。
あるものは今なら、サッカーでワールドカップにでたいとか、野球ならメジャーにとか
そういうことである。他のスポーツもそう。
あるいは政治家を目指すとか、フランス料理をきわめたいというと、ひとは賞賛する。
むろん、小説家になるでもいい。みな、具体的なものだから、ひとり、目前のことに
汲々としているだけに人間なんだなと、じぶんを高く評価できなかった。
 そういう言葉があるかどうか、全的な人間をひそかない思うていたという感じだろう。
しかし、それを言っても一笑を買うだけと感じて、自覚にいたらなかった。
ただ、ホンモノにはなりたいとは思っていた。それじゃ、ひとにはわからない。
口を閉ざすのもむりはないのである。

  この本で、自己意識と言葉との相関性について言及している。
漱石を読んだりした頃から、言葉を知った、つまり、知的にはなった。
それなのに、なぜ、知性を嫌ったのか。
どうも概念とかでは生命の本質に迫れないと感じてきたからではないか。
読み終えていないので、先走りしているが、そんなことを思う。
小林秀雄氏との絡みか、ある種の啓示をうけたように感じて、出奔した。
どうも関連がありそうなのである。
 w氏の本はたくさんに持ち、事実大変知的に益することが多かった。
しかし、第一に影響というと小林秀雄というのも、この変に秘密がありそうである。

  アレンヤエマーソンヘ収斂されてきているのも、そこら辺にありそうである。
自己意識の先へ行こうとしていたのだ。
宇宙意識とはまだいえないが求めてきたのではないだろうか。
本質とか、ほんものという意味である。
極めたいものである、だから、まだまだ生きる。
 

マイガーデン

 投稿者:  投稿日:2017年11月28日(火)10時20分33秒
返信・引用
    いま、パソコンを打っている一画はサンルームに面している。
ガラスの戸を引くと鉢物も置かれている。その外は庭だ。
そうだ、ここへ石油ストーブを持ってこよう。書き疲れたら一望できる。
いままでは書いてそそくさと部屋へ戻る、寒いからだ。それが解消される。
書くことから遠くなる一因でもある。
 読書にも相応しい、暖房を止め、引き戸を閉めても膝掛け、足マットで温めることも
できる。こりゃいい、いいことを思いついたものだ。
幸せな空間ではないか、思索にふけりながら、ときにまどろみ、わが庭に癒される。

 昨年までは2階の一画で毛布などに包まれていた。
灯油ストーブでアタマがもやもやしてくるから、シャープでありたいとそういう思いも
あった。むろん、ここだって、点火すれば同じだが、すぐに切り替えができる。なによりも
眺めがいい。
 上にセットしたもろもろをここへ移そうとすでに気が動き出している。

 さて、それよりなにより、嬉しいこと。
サイドブレーキの正体を知り、解決したこと、すべての因である、じぶんを
信じることの、真の意味を知ったことだろう。
 

庭も今年の作業は

 投稿者:  投稿日:2017年11月25日(土)16時10分50秒
返信・引用
    時々に出て、楽しむだけだ。
いろいろとやりおえて、しみじみとこれかを思い、希望が湧いて来た。
そう、いつも行動、あるいは世間へと思い続けたが本来のぼくは、内省にある。
そこにぼくの本質があると、わかった。
なぜか、ひけめを感じて来たが、逆なんだと分かったのだ。
いろんな方々と接して、どこか違う、そう感じることが多いのだ。
すぐに底が見えてくる。
 内省、むろん、読書や経験に触発されて考えて来たのだ。
悩んで来たことも多いが、それだけではないのだ。
それらに解を求めてきたのだ。世の中は単純ではあるが、また、複雑でもある。
一本づつ、糸を解いたり、編んだりして、自分なりに答えを作業を延々と、いままで
やってきたのだ。
 多くは上っ面でやめてしまうのだ、といまは理解している。
かれらは優秀だったのに進化していないのだ。

  そのことを痛感している。
庭にも言えることで、延々と続けて今の結果である。
できばえに満足している、まだ進化の過程にあるが、なによりも成果を目にする
ことができたので、そういえば、人生も然りと我田引水といわれようがそう思う。

 
 

それでも雨は

 投稿者:  投稿日:2017年10月29日(日)15時20分23秒
返信・引用
    雨も楽しもうといって、それなりにはそうできるのだが
さすがに、あれをこれをいういう予定の立場からはいささかげんなりである。
そんな中でも、しぶとく、小降りをみはからったり、あるいは合羽のいでたちで
庭の作業をしてしまった。
おちついたことはできないのだが、なんせ、月火と連ちゃんで仕事なので少し進めて
おきたいのだ。なによりも、レタスの苗を買ってしまった。3日もあけられないと
やっつけてしまった。
 プランターの雑草は抜いてあったので植えるだけなのだがやりづらい。
ついでに、丸型の苗鉢を、引き出して雑草を抜く。
雨の中だよ~5つあったが、3つを苗にとそう考えている。
あとの二つは、別途に用いよう。置いてあった、黄梅の鉢は庭のしかるところへ移動
夾竹桃の鉢はそれに伴い、移動。やれやれ、雨の中っちゅうのにね。
 昨日、雨の降る前にコンクリーのミニ工事のシートを外して、そこへ所定の鉢を置き
できばえを確かめる。イメージしていたことから、少し方針を変えようと考えたり、まあ
そういうことも楽しいのだ。雨の中であろうと~
 さて、かといってもそうそう、長時間作業はできない、ちょこちょこ手を出してるんで
本格とはいけないのは無論だ。

 で、そこは終えて、町内会の赤い羽根の募金の残り、3軒分を集めてしまう。
さらに連絡員さんへ届けてしまい、この仕事は終り。
きょうは犬の餌が20パーセント引きの日というので、スーパーへ。
み~んなやってしまった。午後には手が空いてしまったような気分で外へでたい
のだが、生憎の雨。ふ~
 しょうがないから、駅伝みてしまって、所在無い、でここへ来た。そうだ、物書きを
目指していたのだったっけと。セットしてあった足マットの試運転。膝掛け温かい。

  まあ、やることはやったかなと欲をかかないことにして、夜は鍋にするかな!
 

晴耕雨読

 投稿者:  投稿日:2017年10月28日(土)15時45分58秒
返信・引用
    という言葉があるが、まあ、耕すはないに等しいが、いわば
庭で遊んでいるのも、その変形と言っていいだろう。
ロックガーデンの趣きを呈してきている。ここにもぼくの特徴がでている。
雑草が生えたり、渾然としているところを画然とさせている、そんな風にこの10年以上
続けている。管理の利便性を思うからだろう。
径をつけたがる、坂ではなく、段差をつけたり、もともとあった傾斜に合わせてそのように
なってきた。境界を曖昧にするのを嫌う。
 なによりも雑草のない庭を目指している、しかし、ゼロとはいかない。
だから、そういうスペースを減らしていたら、だんだん、コンクリーだらけになって
いささかやりすぎと苦笑はしているが。
藤棚をつくったとき、植木屋さん、瓦礫を放置したまま、去っていったのでそれを利用して
富士塚めいたものをつくった。思うようなできばえかは問うまい。そういうことを思うのだ。
犬の囲いなどを撤去したときも瓦礫が出た。
 で、市販の煉瓦に似たものを組んで、大きな枡をつくり、そこに瓦礫を放り込んだ。
その上に手持ちの角材を使い、蓋をつくって、作業台をつくった。これはがっちりしていて
大変重宝している。
天板(蓋)をテーブル様のものに変えることができる。
バーベキューとかも意識した。

 さらに瓦礫がでて、富士塚と趣きの異なる小さな岩山を作り、緑を植えて楽しんでも
いる。
いまは、もともとあった、大きな岩山にさらに上を高くして、と、作業が進行中である。
まだ考えていることもある、来年の春の予定だ。
なかなか、面白いのだ。もともと、利便性や、片付けないといけないからとか、実際的な
ものなのだが、必ずのようにそこになにかプラスする。つまり、
管理しやすいだけのコンセプトかというと違う。明らかに、面白さとか、ある種の
美しさを求めている。
 見ているといろいろと思いつくのだ、それはいまは明確によしとしている。
動いている方がいいからだ。まあ、あえていえば、いろいろと幅が広がる。
おおげさに言えば、技量があがり、人間も大きくなってゆく。遊べる人間でありたい。
お仕着せじゃなく、オリジナルな遊びをしることだ。
それがぼくの、晴耕だろう。そして、雨読、の方は書くことにしたい。
読むべきものはまだ、むろん、あるが、書いた方がいい。

 庭の遊びも書くことも行動だからだ。
 

書くことで確かめる

 投稿者:  投稿日:2017年10月25日(水)09時06分5秒
返信・引用
    いつも隘路に嵌るのは書くことは行動への意欲を減退させるから
ではないだろぷか。
河井継之助の知識主義者を軽侮した姿勢に通じ、早くに共感してきた。
漱石から、小林秀雄氏へ向かったのもじつはそこにある。
いづれも極めつけの知識人というのに矛盾するが、二人は違う。
渡部氏の著作を愛読するも、敬愛まで行かないのはたぶん、行動への契機を持たぬ
ゆえだろう。
その点、安岡氏は行動を前提とした著作である。だから、いっときは政治的に動いて
いる。
中村氏はむろん、行動だ。まづ、第一に体力を置いているのでもわかる。

  まあ、それが迷走の一因でもあるがもうそんなことはどうでもいい。
書いてじぶんの、資質とでもいうのか、二律背反的な矛盾を解く鍵が、書くことにあり
じぶんへ突き刺さる批判を解消することにも繋がる。
いや、自己批判めいたことはすでに方法を得て、健康になってきている。
しかし、病の根源を知ることは大切なことである。

  他をおいて話してきたが、じつはぼくの課題は多くの人にもいえる。
文明批評的な意味合いである。
政治的な現象をみてもいえる、批判、批評ばかりしている勢力は一定の票が集まる。
ぼくのいう浅薄なインテリ的風潮がテレビを媒介として、蔓延しているから。
行動することによって、知るということの大切さが自覚されていない。

  物書きでもだから、2通りあると仮に思うといい。
小説や、詩歌、学者、つまり、文章の世界に自足する人たちであり、いまはとくに
大変高いステータスを得ている。
まあ、ディスクワークである、それは必要である。それは認める。
だから、好んで読むのだ。
だけれども、ぼくはここに安住できないと感じてきたようである。
いつも首を傾げてきた、なぜ、そういう世界を好むのに、反知性とでもいう傾向へ
向かったのか。

  啓示を受けたように、大きな一歩、出京した意味もそこにある。
大きなおおきな、偉大な一歩なのだと知らねばいけない。
そうしない永遠にじぶんをみることでできな。それほど、深い意味がある。

 世間はその深奥を知らない、だから、深く蔵したのだ。
単なる臆病ではない。その点でも誤解をしてきたが、最近、悟ったのだ、そう悟った。
漠然と感じていたものを確かなものとして内蔵したと確信している。
 

動くと方法は見つかる

 投稿者:  投稿日:2017年10月23日(月)19時30分58秒
返信・引用
    とにかく、一歩を踏み出すことだ。
いまあるものも、その結果なのだ。
さらに一歩を進めればいい。

 必ず、方法は見つかる。
 

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