投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成


いまでいいのだ

 投稿者:  投稿日:2017年 9月20日(水)15時42分22秒
返信・引用
    最近、ようやくわかってきた。
いまのじぶんでいいのだ、と。なにひとつ不足していない。
成功も富も自分の中にあるということの意味がわかった。
アタマでも早くに、足りなくはないと言い聞かせていたが、ほんとうの
ところ、まだ観念で止まっていた。
じぶんを信じればいい、つまり、じぶんという卑小なものなどという考えを
根底から払拭すれば時は至るのだ。
 これに集中することだ。
 

集中力

 投稿者:  投稿日:2017年 9月18日(月)16時01分22秒
返信・引用
   どんな小さなことでも、その一点に集中するのがいい。
マア、料理とかね、なんでもそうだ。
面白いことは自然とそうなっている、逆に言えば、集中していると
だんだん、そのことに馴れて、習熟してゆく。
その逆が気を抜いてやっていると、何年やってもモノにならなということになる。

 その点、自負してもいいかも知れない。
それを、思索にも適用すべきだ。最大の問題はたぶん、多岐に渡る考えを雑然と
受け入れてきたことだ。
視野の広さとか、多様さという言葉に幻惑されて、集約されていないのだ。
だから、迷い続けてきた。
 遍歴も必要と考えてきたからであるが、そのときは過ぎた。
視野は広いのがいい、多様性を維持すればいい、しかし、核心、そう、確信を
持たないといけない。
そうすれば、すべてが生きてくる。

 ときが来たのだ、約束は成就される!
 

独自性

 投稿者:  投稿日:2017年 9月17日(日)10時02分15秒
返信・引用
    生きてきて、親兄弟の身近な人間関係から、仕事やら幅を広げる。
ごくありふれた人生である。
しかし、どこか、彼らと違うものを感じ続けてきた。たぶん、本来、人間は自分と
他人、社会との折り合いに戸惑いながら、なんとか適応する。
上手下手はあるがどうにかそうやっているのだ。そこは同じだ、それでもどこか
違いを感じるのだ。
 たぶん、その違和感を手放せなくて、答えを求め続けたのだろう。
人間関係というとき、実際の場もあるが、読書の影響も大きい、そこにヒントが
ありそうだ。
実際、それこそ、親子、男女、隣近所、学校、会社などでどう、したらいいのか戸惑う
ことも多い。そこで、巷の本やさんなどでも処世訓や、人生論、ハウツウものが
並んでいる。多くは、当面の悩みの処方箋である。
まあ、対処療法的なもので、本質的ものや、体系的なものは敬遠されて、済ませてしまう。
みな、そこそこ、解決策を、その中には長いものには巻かれろ、から、うやむやとかもある。
世の中なんかそんなものさというわけである。
 どうも、そこにわたしとの違いの因があると断定していい。
今の世の中は、器の時代、現世利益の世だから、本質的な思考など省みられない。
むろん、そこそこにはいるのだ。本を読む人などはそう言ってもいいのだが、やはり
突き詰めると、いわばある種の哲学的な難解さも伴う、言葉をかえていえば、抽象的な
思索や、瞑想といった類のことへも入っていかないといけないだろう。
 じぶんを過少評価する病と、それに起因してか、私の読書の特異性の重大さをなかなか
評価できなかった。結果がでないと思い込んでいたからだろう。つまり、通俗的な成功である。
ようやく、わかってきたことがある。
 私に過不足はない、満たされているのだ、ひとつの奇跡でもあると。
いや、だれでもが大いなる奇跡なのだ、気づいていないだけだ。
かれらは訓練も、切迫感もないから、私以上に遠いところにいる、そう最近は思う。
自惚れだろうか、そうではないといまは確信できる。それが違いなのだ。
だれもが同じだが、差異というのはある。
どんなことにでも差異はある、人間は同じではあるが、差異はある。
同じことだ。
 個別の知識、経験も漁った、しかし、わたしはそれ以上に本質的な思考へ向かってきた。
その結果がでていたのである、そして、いま、ついにわかった。
 

生活

 投稿者:  投稿日:2017年 8月28日(月)16時11分2秒
返信・引用
    いろいろなことに手を出す理由のひとつは
生活の手段としてのつもり。
庭もそうだった、ははが手を出せなくなって、さて、荒れ果てるのも
見ていて心苦しい。そんなことから、始まった。
とうじはとくに失意もあり、現実への屈折した思いを抱えていた。
捌け口の感もあったろう、そして、次第に面白くもなり、じぶんの別の側面も
見つけた。
 これはこれでよかった、じぶんでも、ひとつに可能性を思えた。
創ること、これらもそう言っていいのだと気づいた。
いまは、料理へ向かいだしている。

  しかし、どこか庭創りにせよ、逸れていると感じ続けてきた。
ぼくは読書にも多くの時間を費やしてきた、そして、生活や仕事からも多くを
学んできた、しかし、言うように、外側の世界であり、本質ではない。
係わりがないのではなく、みな、繋がっているのだ。だが、みな、部分である。
君子は器ならずという、そのことだ。

  市井に生きるというのは、じつは場としてはあっても同じには
生きられない。そこをつい思い違いをしてきてしまった。
周りとは話が通じないように感じる、その違和感は、ぼくの読書、経験、思索を
得て積み重ねてきたものだ。
 単なる本好きではないようだ、
たしかに雑駁に生きてきた、しかとした志のなかったせいでもある。
しかし、それを探していたのだ。ぼくは文筆で生きようとしたことはないのだ。
まあ、いろいろと知り、いろいろと経験しながら、よく生きたかった。

 生きる場の貧しさ( 精神的とか、人格とかね、そういう類のイメージから遠い )
そう、抽象的な観念で言う、大衆である。
一見知的に見える、大学卒などなど、メディアもそうである。
 

周辺

 投稿者:  投稿日:2017年 8月19日(土)13時01分49秒
返信・引用
  リビングの模様替えをし、まがいものなりに本棚もできた。
いろんな本がある、手広い。
俳句の本もある、難しいのもある。一方、料理や、園芸、あれこれある。つまり、実用的な
類だ、なんとも纏まりのないとため息まじりに吐息をつく。
 いぜん、本丸を攻めずに、外堀を埋めることに没頭したり、出城ばかりを
つぶしているようなものだなのかな、と哀しい反省もした。
たしかにそんな点もあるように感じるが、その本丸が、いわば、書くことなのか、という
ブレーキがあるからだ。行動というが、些細なことはなんでもすぐにやる。
どんどん、解決している。
しかし、世間を動かしたいという願望が乏しいのだから、そもそも、ムリなのだ。
内省へ向かう、それがわたしの本質。
でも、それを自覚しない、二途にでてしまってきた。
それを一途に変えようとしている。

  周辺がないと、あまりに抽象的になり、浮世離れしてしまう。
だから、まあ、趣味、余技、気分転換なんだと、位置づけて、あまり深入り
しないことだろう。
薄々そう思いつつ、どうかすると、周辺に走る。
なぜかというと容として目に見えるからである、成果がわかるから。
しかし、書くことは読む人がいないから、かえって孤立感を深める。
読んでもらえるものを書かないと、そう思うのだが、こんなことしか書けない。

  だから、頓挫してしまうのだろう。
 

書くこと

 投稿者:  投稿日:2017年 8月18日(金)10時20分46秒
返信・引用
   最近、テレビをそう見るでもないのに、その前に座っている。
ソフアだ、食後とかゆっくりしたいということだ。
しかし、どうもそれがいけない。
 やろうとしたリビングの模様替えも済んだ。われながら、手際よしだ。
さて、雨模様が続いているし、まだ外仕事には向かない。
ということで、ひさしぶりにパソコンに向かって書くことにした。
そこそこ、アタマも使う、手も使う、ときに調べる。
ボケ防止とか、そんな損得計算はしないが、まあ、そんなこともちらっとは思う。

  自覚的な人生の始まりは読書、漱石、小林秀雄、と続いていったのだ。
ただ、一筋には歩まなかった。
なぜかということも折にふれ、考えた。
そんな思いの果てに、エマーソンに出会った。

  まあ、酔っ払っておのれを失っていたようなことなのだが
なにごとも遅いということはない。
かってに、多くのことを知る、経験を経る、そんな思いが底にあったようにも思う。
もう、いいだろう。きりのない話だから。
実際とか、現実とかも、もういい、じぶんの夢を現実にすることだ
つまり、それが現実なのだ、学んできたのは他人の現実と気づいたようなものかなと
慨嘆もするが、繰り返すが、そこから始めればよい。
 

兄の命日

 投稿者:  投稿日:2017年 8月17日(木)09時39分29秒
返信・引用 編集済
    一昨日、妹と15日に墓参りをしてきた。
17年、早い。わたしには痛切な思いではあったが、それも
風雪に墓碑の銘が薄れるように風化しつつある。忘れるものではないが
それでいいと、すまないという気持ちはあっても、そう思っている。
いづれ、行く路である。
 わたしは私の生き様をいまさらに思っている。
まだまだ、と思ってきた、が、さすがに、そろそろ、じぶんを決めないと
いけないと。世間からみたら、なにを今頃と思うかも知れないが、わたしは成長
しつづけるのだと考えて来たのだ。
だから、これからもそうだ。しかし、二途に走りがちな資質にもケリをつけて
一途に生きないと、曖昧なままに終わってしまう。
 じぶんを誤解してきたこともわかってきているから、まあ、第三ステージ、これ
あろうかと思える。
 兄の命日を前に、あれこれ、模様替えもし、この場の開きも作った。
やはり、書くことは大事だ、独白であれ。
 

白鳥の子の喩え

 投稿者:  投稿日:2016年12月18日(日)15時24分22秒
返信・引用
  ずいぶん、むかしのことになる。
漠然とした思い、妄想の類だが、アヒルの子の中に紛れ込んだ
白鳥の子をイメージしたことがある。
いつも違和感がある、またみなと仲良くしても、どこか異邦人のように感じ
あるいは、かれらからもそう見られているような感覚に襲われたのだ。
ただ、すぐに忘れてしまうのだが~
なぜなら、ぼくの住んでる群れはアヒルばかりなのだから。
 だからなのかも知れない、市井の人でありたいと言う、その心底である。
雑踏の中にあれば、異人も目につきずらい。
しかし、もし、田舎にいたら、注視の中に晒されるだろう。
そういう恐れを感じるからだろうといまは思う。
 しかし、もうそうもいかないのだ。じぶんであるしかないのだ。
本来の姿を自覚しないから、ますます、ギャップが深まり、混乱し迷走する。
幸運も逃げてゆくのだ。

 60兆の細胞は宇宙の波動のようにぼくを包んでいる。
恐れることはない、孤立することはない。
そのことに気づいて、変わりつつある、感じ始めている。
ぼくがなにものであるか、人生のほんとうの意味を分かり始めている。
ぼくは白鳥なのだ、むろん、ものの喩えであるが。
 

創造

 投稿者:  投稿日:2016年12月11日(日)16時27分29秒
返信・引用
  面白い本を読んでいる。
パワーか、フォースか。という。わたしの知らない概念で
あったが、ダイアーの本で知った。
その中に、創造する人の心にインスピレーションが湧くと人間の意識は
織り込まれた世界に繋がると。
つまり、可視の世界の向こうへつながるということである。
もうひとつ、限界値は破られるということ。

 このことをとことん、突き詰めてみよう。
潜在意識を使い、だれにでもある、この才能、そしてそれは
信じるものにしか生まれない。

 小さな可視の世界に右往左往してちゃしょうがない。
そういえば、庭なり、部屋をあれこれするのもたぶん、可能性を
持っているのだ。
好きなんだ、と思う、そして好きなことの中にあるのだ。
なにが、そう、限界を破るヒントであり、延長を思い続ければいい。
 

読書と暖房

 投稿者:  投稿日:2016年12月 9日(金)16時05分46秒
返信・引用
   賀状のこともあり、一階のパソコンへ触れて、そろそろと
気持ちを切り替えていたら、思い出した。
昨年のスポーツ部屋もそうだったが、毛布に包まり、足温器を使い
過ごした事を。
 そうなのだ、節約のためだけではない。朦朧としてくるからだ。
本も読めないし、眠くなるし、非行動的になる。
どうも冴えないな、と思った。苦笑

 電源を忘れてはいけないのでスイッチをテーブルに固定。
殺風景だが、そんなことを細工した。
きょうもあれと、めげることがあったが、なに、小事と切り替えした。
しかし、スカッとしない状況であることも事実でこんなときこそ、ポジティブに
ならないといけない。
単に精神論じゃない、潜在意識を活性化させるためにもポイントである。
どんどん、切り替えしてゆこう。
 

/29