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それでも雨は

 投稿者:  投稿日:2017年10月29日(日)15時20分23秒
返信・引用
    雨も楽しもうといって、それなりにはそうできるのだが
さすがに、あれをこれをいういう予定の立場からはいささかげんなりである。
そんな中でも、しぶとく、小降りをみはからったり、あるいは合羽のいでたちで
庭の作業をしてしまった。
おちついたことはできないのだが、なんせ、月火と連ちゃんで仕事なので少し進めて
おきたいのだ。なによりも、レタスの苗を買ってしまった。3日もあけられないと
やっつけてしまった。
 プランターの雑草は抜いてあったので植えるだけなのだがやりづらい。
ついでに、丸型の苗鉢を、引き出して雑草を抜く。
雨の中だよ~5つあったが、3つを苗にとそう考えている。
あとの二つは、別途に用いよう。置いてあった、黄梅の鉢は庭のしかるところへ移動
夾竹桃の鉢はそれに伴い、移動。やれやれ、雨の中っちゅうのにね。
 昨日、雨の降る前にコンクリーのミニ工事のシートを外して、そこへ所定の鉢を置き
できばえを確かめる。イメージしていたことから、少し方針を変えようと考えたり、まあ
そういうことも楽しいのだ。雨の中であろうと~
 さて、かといってもそうそう、長時間作業はできない、ちょこちょこ手を出してるんで
本格とはいけないのは無論だ。

 で、そこは終えて、町内会の赤い羽根の募金の残り、3軒分を集めてしまう。
さらに連絡員さんへ届けてしまい、この仕事は終り。
きょうは犬の餌が20パーセント引きの日というので、スーパーへ。
み~んなやってしまった。午後には手が空いてしまったような気分で外へでたい
のだが、生憎の雨。ふ~
 しょうがないから、駅伝みてしまって、所在無い、でここへ来た。そうだ、物書きを
目指していたのだったっけと。セットしてあった足マットの試運転。膝掛け温かい。

  まあ、やることはやったかなと欲をかかないことにして、夜は鍋にするかな!
 

晴耕雨読

 投稿者:  投稿日:2017年10月28日(土)15時45分58秒
返信・引用
    という言葉があるが、まあ、耕すはないに等しいが、いわば
庭で遊んでいるのも、その変形と言っていいだろう。
ロックガーデンの趣きを呈してきている。ここにもぼくの特徴がでている。
雑草が生えたり、渾然としているところを画然とさせている、そんな風にこの10年以上
続けている。管理の利便性を思うからだろう。
径をつけたがる、坂ではなく、段差をつけたり、もともとあった傾斜に合わせてそのように
なってきた。境界を曖昧にするのを嫌う。
 なによりも雑草のない庭を目指している、しかし、ゼロとはいかない。
だから、そういうスペースを減らしていたら、だんだん、コンクリーだらけになって
いささかやりすぎと苦笑はしているが。
藤棚をつくったとき、植木屋さん、瓦礫を放置したまま、去っていったのでそれを利用して
富士塚めいたものをつくった。思うようなできばえかは問うまい。そういうことを思うのだ。
犬の囲いなどを撤去したときも瓦礫が出た。
 で、市販の煉瓦に似たものを組んで、大きな枡をつくり、そこに瓦礫を放り込んだ。
その上に手持ちの角材を使い、蓋をつくって、作業台をつくった。これはがっちりしていて
大変重宝している。
天板(蓋)をテーブル様のものに変えることができる。
バーベキューとかも意識した。

 さらに瓦礫がでて、富士塚と趣きの異なる小さな岩山を作り、緑を植えて楽しんでも
いる。
いまは、もともとあった、大きな岩山にさらに上を高くして、と、作業が進行中である。
まだ考えていることもある、来年の春の予定だ。
なかなか、面白いのだ。もともと、利便性や、片付けないといけないからとか、実際的な
ものなのだが、必ずのようにそこになにかプラスする。つまり、
管理しやすいだけのコンセプトかというと違う。明らかに、面白さとか、ある種の
美しさを求めている。
 見ているといろいろと思いつくのだ、それはいまは明確によしとしている。
動いている方がいいからだ。まあ、あえていえば、いろいろと幅が広がる。
おおげさに言えば、技量があがり、人間も大きくなってゆく。遊べる人間でありたい。
お仕着せじゃなく、オリジナルな遊びをしることだ。
それがぼくの、晴耕だろう。そして、雨読、の方は書くことにしたい。
読むべきものはまだ、むろん、あるが、書いた方がいい。

 庭の遊びも書くことも行動だからだ。
 

書くことで確かめる

 投稿者:  投稿日:2017年10月25日(水)09時06分5秒
返信・引用
    いつも隘路に嵌るのは書くことは行動への意欲を減退させるから
ではないだろぷか。
河井継之助の知識主義者を軽侮した姿勢に通じ、早くに共感してきた。
漱石から、小林秀雄氏へ向かったのもじつはそこにある。
いづれも極めつけの知識人というのに矛盾するが、二人は違う。
渡部氏の著作を愛読するも、敬愛まで行かないのはたぶん、行動への契機を持たぬ
ゆえだろう。
その点、安岡氏は行動を前提とした著作である。だから、いっときは政治的に動いて
いる。
中村氏はむろん、行動だ。まづ、第一に体力を置いているのでもわかる。

  まあ、それが迷走の一因でもあるがもうそんなことはどうでもいい。
書いてじぶんの、資質とでもいうのか、二律背反的な矛盾を解く鍵が、書くことにあり
じぶんへ突き刺さる批判を解消することにも繋がる。
いや、自己批判めいたことはすでに方法を得て、健康になってきている。
しかし、病の根源を知ることは大切なことである。

  他をおいて話してきたが、じつはぼくの課題は多くの人にもいえる。
文明批評的な意味合いである。
政治的な現象をみてもいえる、批判、批評ばかりしている勢力は一定の票が集まる。
ぼくのいう浅薄なインテリ的風潮がテレビを媒介として、蔓延しているから。
行動することによって、知るということの大切さが自覚されていない。

  物書きでもだから、2通りあると仮に思うといい。
小説や、詩歌、学者、つまり、文章の世界に自足する人たちであり、いまはとくに
大変高いステータスを得ている。
まあ、ディスクワークである、それは必要である。それは認める。
だから、好んで読むのだ。
だけれども、ぼくはここに安住できないと感じてきたようである。
いつも首を傾げてきた、なぜ、そういう世界を好むのに、反知性とでもいう傾向へ
向かったのか。

  啓示を受けたように、大きな一歩、出京した意味もそこにある。
大きなおおきな、偉大な一歩なのだと知らねばいけない。
そうしない永遠にじぶんをみることでできな。それほど、深い意味がある。

 世間はその深奥を知らない、だから、深く蔵したのだ。
単なる臆病ではない。その点でも誤解をしてきたが、最近、悟ったのだ、そう悟った。
漠然と感じていたものを確かなものとして内蔵したと確信している。
 

動くと方法は見つかる

 投稿者:  投稿日:2017年10月23日(月)19時30分58秒
返信・引用
    とにかく、一歩を踏み出すことだ。
いまあるものも、その結果なのだ。
さらに一歩を進めればいい。

 必ず、方法は見つかる。
 

もう、成ってはいる。

 投稿者:  投稿日:2017年10月22日(日)10時43分29秒
返信・引用
    ただ、もしあとひとつ足りないとしたら、根源からの自信である。
付いてきなさいと人に言える自信であろう。
ぼくは出京のときの思いを過小評価してきた、いや、それ以前から
人生について考えてきたのだ。それが漱石などの文学体験で、文学そのものではない。
だから、一向に小説家になろうとか、そんな気が起きなかったのだ。むろん、だから、詩も。
求め続けてきた、あえて、いわば苦難に踏み込んだりも、ようは多くの体験を経て、強靭
な精神になりたかったのだ。
 寡聞にして、そんな人生をいきた人たちに逢うことはなかった。
みな、せいぜいが部分であり、断片であり、経験知であった。物足りなかったわけである。
ぼくは全肯定をするべきなのである。
それは人間そのものが自然の、天の意思の顕れなのだから。ぼくもそうなのだ。
だれもがそうであるようにぼくもそうなのだ。
 しかし、ひとは知らない。
 

いまでいいのだ

 投稿者:  投稿日:2017年 9月20日(水)15時42分22秒
返信・引用
    最近、ようやくわかってきた。
いまのじぶんでいいのだ、と。なにひとつ不足していない。
成功も富も自分の中にあるということの意味がわかった。
アタマでも早くに、足りなくはないと言い聞かせていたが、ほんとうの
ところ、まだ観念で止まっていた。
じぶんを信じればいい、つまり、じぶんという卑小なものなどという考えを
根底から払拭すれば時は至るのだ。
 これに集中することだ。
 

集中力

 投稿者:  投稿日:2017年 9月18日(月)16時01分22秒
返信・引用
   どんな小さなことでも、その一点に集中するのがいい。
マア、料理とかね、なんでもそうだ。
面白いことは自然とそうなっている、逆に言えば、集中していると
だんだん、そのことに馴れて、習熟してゆく。
その逆が気を抜いてやっていると、何年やってもモノにならなということになる。

 その点、自負してもいいかも知れない。
それを、思索にも適用すべきだ。最大の問題はたぶん、多岐に渡る考えを雑然と
受け入れてきたことだ。
視野の広さとか、多様さという言葉に幻惑されて、集約されていないのだ。
だから、迷い続けてきた。
 遍歴も必要と考えてきたからであるが、そのときは過ぎた。
視野は広いのがいい、多様性を維持すればいい、しかし、核心、そう、確信を
持たないといけない。
そうすれば、すべてが生きてくる。

 ときが来たのだ、約束は成就される!
 

独自性

 投稿者:  投稿日:2017年 9月17日(日)10時02分15秒
返信・引用
    生きてきて、親兄弟の身近な人間関係から、仕事やら幅を広げる。
ごくありふれた人生である。
しかし、どこか、彼らと違うものを感じ続けてきた。たぶん、本来、人間は自分と
他人、社会との折り合いに戸惑いながら、なんとか適応する。
上手下手はあるがどうにかそうやっているのだ。そこは同じだ、それでもどこか
違いを感じるのだ。
 たぶん、その違和感を手放せなくて、答えを求め続けたのだろう。
人間関係というとき、実際の場もあるが、読書の影響も大きい、そこにヒントが
ありそうだ。
実際、それこそ、親子、男女、隣近所、学校、会社などでどう、したらいいのか戸惑う
ことも多い。そこで、巷の本やさんなどでも処世訓や、人生論、ハウツウものが
並んでいる。多くは、当面の悩みの処方箋である。
まあ、対処療法的なもので、本質的ものや、体系的なものは敬遠されて、済ませてしまう。
みな、そこそこ、解決策を、その中には長いものには巻かれろ、から、うやむやとかもある。
世の中なんかそんなものさというわけである。
 どうも、そこにわたしとの違いの因があると断定していい。
今の世の中は、器の時代、現世利益の世だから、本質的な思考など省みられない。
むろん、そこそこにはいるのだ。本を読む人などはそう言ってもいいのだが、やはり
突き詰めると、いわばある種の哲学的な難解さも伴う、言葉をかえていえば、抽象的な
思索や、瞑想といった類のことへも入っていかないといけないだろう。
 じぶんを過少評価する病と、それに起因してか、私の読書の特異性の重大さをなかなか
評価できなかった。結果がでないと思い込んでいたからだろう。つまり、通俗的な成功である。
ようやく、わかってきたことがある。
 私に過不足はない、満たされているのだ、ひとつの奇跡でもあると。
いや、だれでもが大いなる奇跡なのだ、気づいていないだけだ。
かれらは訓練も、切迫感もないから、私以上に遠いところにいる、そう最近は思う。
自惚れだろうか、そうではないといまは確信できる。それが違いなのだ。
だれもが同じだが、差異というのはある。
どんなことにでも差異はある、人間は同じではあるが、差異はある。
同じことだ。
 個別の知識、経験も漁った、しかし、わたしはそれ以上に本質的な思考へ向かってきた。
その結果がでていたのである、そして、いま、ついにわかった。
 

生活

 投稿者:  投稿日:2017年 8月28日(月)16時11分2秒
返信・引用
    いろいろなことに手を出す理由のひとつは
生活の手段としてのつもり。
庭もそうだった、ははが手を出せなくなって、さて、荒れ果てるのも
見ていて心苦しい。そんなことから、始まった。
とうじはとくに失意もあり、現実への屈折した思いを抱えていた。
捌け口の感もあったろう、そして、次第に面白くもなり、じぶんの別の側面も
見つけた。
 これはこれでよかった、じぶんでも、ひとつに可能性を思えた。
創ること、これらもそう言っていいのだと気づいた。
いまは、料理へ向かいだしている。

  しかし、どこか庭創りにせよ、逸れていると感じ続けてきた。
ぼくは読書にも多くの時間を費やしてきた、そして、生活や仕事からも多くを
学んできた、しかし、言うように、外側の世界であり、本質ではない。
係わりがないのではなく、みな、繋がっているのだ。だが、みな、部分である。
君子は器ならずという、そのことだ。

  市井に生きるというのは、じつは場としてはあっても同じには
生きられない。そこをつい思い違いをしてきてしまった。
周りとは話が通じないように感じる、その違和感は、ぼくの読書、経験、思索を
得て積み重ねてきたものだ。
 単なる本好きではないようだ、
たしかに雑駁に生きてきた、しかとした志のなかったせいでもある。
しかし、それを探していたのだ。ぼくは文筆で生きようとしたことはないのだ。
まあ、いろいろと知り、いろいろと経験しながら、よく生きたかった。

 生きる場の貧しさ( 精神的とか、人格とかね、そういう類のイメージから遠い )
そう、抽象的な観念で言う、大衆である。
一見知的に見える、大学卒などなど、メディアもそうである。
 

周辺

 投稿者:  投稿日:2017年 8月19日(土)13時01分49秒
返信・引用
  リビングの模様替えをし、まがいものなりに本棚もできた。
いろんな本がある、手広い。
俳句の本もある、難しいのもある。一方、料理や、園芸、あれこれある。つまり、実用的な
類だ、なんとも纏まりのないとため息まじりに吐息をつく。
 いぜん、本丸を攻めずに、外堀を埋めることに没頭したり、出城ばかりを
つぶしているようなものだなのかな、と哀しい反省もした。
たしかにそんな点もあるように感じるが、その本丸が、いわば、書くことなのか、という
ブレーキがあるからだ。行動というが、些細なことはなんでもすぐにやる。
どんどん、解決している。
しかし、世間を動かしたいという願望が乏しいのだから、そもそも、ムリなのだ。
内省へ向かう、それがわたしの本質。
でも、それを自覚しない、二途にでてしまってきた。
それを一途に変えようとしている。

  周辺がないと、あまりに抽象的になり、浮世離れしてしまう。
だから、まあ、趣味、余技、気分転換なんだと、位置づけて、あまり深入り
しないことだろう。
薄々そう思いつつ、どうかすると、周辺に走る。
なぜかというと容として目に見えるからである、成果がわかるから。
しかし、書くことは読む人がいないから、かえって孤立感を深める。
読んでもらえるものを書かないと、そう思うのだが、こんなことしか書けない。

  だから、頓挫してしまうのだろう。
 

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