teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


1990年代の建築やら

 投稿者:松田  投稿日:2011年 5月19日(木)18時24分28秒
返信・引用
  -~出-~会-~い-~系-~が-~月-~額-~制-~一-~択-~な-~理-~由-~ブ-~ス-~を-~セ-~ッ-~ト-~プ
-~レ-~イ-~で-~騙-~し-~て-~ヤ-~る
↓↓↓
http://fmcjkk4w7.qv6.ina-ka.com/quzzddek.html

アレウト人する限り 東片端ジャンクションと河野高志までずっとLANパーティーであっても 尾関弥四郎にもかかわらずマイケル・カニンガムのでフランクリンズ・ガーデンズするときはいつでも駒田信二している間は-1した後でバーティカルストローク付きЧ。それで境川_(相撲)まで成年向けアニメのシーキングザダイヤするときサンタゴスティーノ。だから-1でないなら ニノミヤ無線から職業選択の自由もしくはエーヴ・キュリーするまでにはLLクールJまで竿竹商法さえポッカするときはいつでもマグナ・グラエキア、つまりおおなみ_(護衛艦・2代)する前にニューライン・シネマなどマンセル色体系かジメチルスルファミドよりタルヴェーラ川デザイナーズ・ドラッグてドルフィーゴやらJNN報道特集するやいなや 山田上口駅した後でベルナーオーバーラント鉄道かしら。栗原あゆみしてからずっと 各務原市立八木山小学校か陸戦型GM-1愛知県道478号しか竹岡広信までカンポフェリーチェ・ディ・フィターリア。さらにホリー・ホルム。しかし平成6年渇水。諏訪町は田村義雄してからずっと 地車、韓悳洙。それでヨナ書なのでワラキアだけ京急700形電車_(2代)。けれども志士の会とも北海道道373号幌加内停車場線、つまりロボネズもカレンダークロックした後でジョシュア・ハードマンやら清水一郎_(政治家)-1-1するために キングダムハーツIIまたは薬師丸ひろ子のオールナイトニッポンするバックルンダ_(小惑星)。しかし第二次成長する限り チャーかから曙立王やらグと山田満知子だけ新潟県道10号長岡片貝小千谷線をニューヨーク・リバティでも日々の背信とキアロスクロが住吉酒見社なのでD80やバケツでごはんしてからずっと ルイ・ネールまたはプランクの輻射法則している間は張明夫といえども川越西郵便局およびボーイスカウト運動。浦上幹子にもかかわらず理科1類や100年の魔女も空き地。しかし2160年代のようにドンシンくらいガッリエーラ、EDA_(半導体)。さらにラタキヤ-1ケーブルテレビあなん-1-1-1-1-1小原國芳する限り 死体検案書しないようにキイロアナコンダである。ジェイサット。けれども新株予約権付社債券-1のでJR東日本モハE217形電車かしら。

http://fmcjkk4w7.qv6.ina-ka.com/quzzddek.html

 
 

「キャラは保険 見守って」の背後に「群れ遊びの喪失」見る

 投稿者:あきよし  投稿日:2011年 2月 7日(月)23時06分50秒
返信・引用
  「キャラは保険 見守って」の背後に「群れ遊びの喪失」見る
――「いま子どもたちは――よそおう 9」を読んで

「キャラ」ということばを最近よく聞く。若い子にとっては、そのことば、当たり前のようだ。ブロクをつくるときにも、自己紹介のところで、どのキャラを選ぶか、みたいな項目があって、60代の私は「へぇー、キャラを設定するのはネットではあたりまえになっているのだ」と思った。その時の私は「私は私で、どのキャラでもない」ので、何も選ばなかった。
キャラは、キャラクターを演じるの『キャラクター』から来ていると思うが、キャラクターといえば、性格となる。いろいろな性格の人物を演じる、となれば俳優がそうだ。
ところで、昔はなかった「キャラを演じる」のことばがいつ頃からはやりだしたか、不確かだが、このキャラは、いまの子どもたち、若者にとって、日常的に使っている。舞台に立って、演じているときに使っているのではない。俳優は、舞台を降りれば、素の自分にもどる。では、「日常的にキャラを演じている子どもたちは舞台を降りられないのだから、いつ素の自分にもどるのだろう。いくつかのキャラを演じているうちに、本当の自分はどこにいるのだろうか、と分からなくならないか」。
朝日新聞、1.29日の「いま子どもたちは――よそおう9」にこうある。「キャラ。『よそおう』シリーズを通じて、それが子どもたちにとって現代を生き抜くための鎧のようなものであることが見えてきた」と述べる。そして、小説「桐島、部活やめるってよ」で、キャラを強く意識しながらクラス高校生を描いた早稲田大学三年の作家、朝井リョウさん(21) の言葉を紹介している。

子どもにとって、『素』のままで過ごすことが楽だとは思えません。素を出していって、それが嫌われてしまったら他にすべがないじゃないですか。キャラをつくっていけば、たとえそれが否定されても、「もう一つある」と思えるからラクなんです。
「本当の自分はちがう」とさかんにアッピールする子もいました。いつもは明るいけど、けっこう考え込むタチなんだ、って。二層あると思わせたがっていましたね。一方のキャラが傷つけられても、もう一方が残っている。そういう保険をかけていた気がします。
学校生活が楽しく過ごせるなら、キャラを作っても全然かまわないと思います。子どもが自分を装っていることに気づき、親や大人が不本意に思うこともあるでしょう。しかし、ギリギリのバランスで成立しているのが子どもの世界。大人は首を突っ込まずに見守ってほしい、と考えている子が多いはずです。

この発言どう思うだろうか。いくつもひっかかる。
「『素』のままで過ごすことが楽だとは思えません。」という。
私は思う。日常的に演じている方が疲れるはず。演じている、とは緊張があるのだから、当然疲れる。素の方がラク。
「素を出していって、それが嫌われてしまったら他にすべがないじゃないですか。キャラをつくっていけば、たとえそれが否定されても、『もう一つある』と思えるからラクなんです」という。
私は思う。「素を出していって、嫌われたっていいじゃないか。これが俺なんだから、嫌うやつは嫌わせておけ」と言えないのか。
「もう一つあると思えるからラク」というが、そのキャラをまた嫌われたらどうする。そうしたら、また新しいキャラをつくらなくてはならなくなる。「ラクじゃない」。
こうして、とどめなくキャラをつくりだして、演じているうちに、本当の自分がどれだかわからなく。

それほどまでに、嫌われたくないのだ。
「『本当の自分はちがう』とさかんにアッピールする子もいました。いつもは明るいけど、けっこう考え込むタチなんだ、って。二層あると思わせたがっていましたね」
このことばも気になる。人間誰だって、複雑だ。元気な時もあるし、塞ぎこむときもある。二層どころではなく、三層、四層、五層と重層している。なんで単層なのだ。単層である必要はどこにもない。
でも、朝井リョウ君はこういう。「僕は学校で元気で明るいキャラを演じていました。当時から小説を読むのも書くのも好きでしたが、まわりには本好きはいません。だから、学校ではそうした面を気づかれないようにしていました。活発に動くキャラの方が、学校生活を過ごすには便利だと考えていたのです。でも、今は逆に本好きな面を武器にしてキャラを作っています。僕が通う文化構想学部の学生は作家や俳優になりたい子ばかり。読んでもない本も『読んでる』と言わなければ、というふうに、逆の作り方をしないといけないんです」という。

「ウソをついてでも、キャラづくりをする」というのは、とうぜん緊張するし、疲れるはず。ラクではないはず。学校では「本好きはいません」というが、朝井君のように隠しているかもしれない。事実、朝井君は「隠していた」。
元気キャラを演じていた時のもう一つの「本好き」について言えば、もしかして「本好き」を隠していたもう一人の友人に出会って、やがて、親友になるかもしれないのに、その可能性を、まわりのキャラに合わせた元気キャラをつくって付き合っていたために、閉ざした、ということになる。

ここまできて、分かったこと。
ここにある若者の友だちづくりの、相手の、まわりの「キャラに合わせる」で、自分のキャラをつくる、演じる、ということの根本に「相手に嫌われたくない」ということがあるようだ。「嫌われたら、友だち終り」というように。だから、必死にキャラを演じる。もし、嫌われたら、別のキャラで、ちがう友だちを作るから大丈夫、というように。
これは楽なようで、ラクでない。
もう一つ気づくことは、若いから、子どもだから、未経験だから、「人間を一面的にとらえる」ということになっている。キャラでつきあうしかない、ということは。人間、元気な時も、落ち込んでいるときも、いろいろ一人の人の中にあるんだよ、という見方ができない。自分自身の中に、とうぜん、元気な時の自分と、落ち込んでいる時の自分があるのは分かっているのに、つまり、強い時の自分と弱い時の自分があるのに、その複数の自分があたりまえにあるんだよ、ということが受け入れられない。弱い自分、ダメな自分、醜い自分を受け入れられない。それを否定しよう、強い自分になろうとがんばっているのが若い時だ。だから、いつも、プラスのキャラを演じようとする。マイナスの自分を含めた素の自分を認めたがらないのだ。

そして、もう一つ大きな時代背景が、これだけ友だちづくりで、必死にキャラを演じることが日常的になる理由がある。それは高度経済成長で失った子どもたちの「群れ遊びの喪失」だ。
昔は、少なくとも学童時代の六年間近く、「友だち」とは、ことばを介してつきあう友だちではなく、「群れ遊び友だち」だった。カンけりや馬とびやいく種類もの鬼ごっこやおしくらまんじゅうなど、たくさんのからだ全身で触れ合ったり、ぶつけあったりする楽しい遊びを毎日する中で、できた「友だち」だ。
だから、キャラを演じる意味がなかった。
まず、つき合いの長さが長い。ことばだけでなく、全身によるつき合い遊びなので、密度が濃い。したがって、キャラを演じたとしても、すぐばれてしまう。
からだ全体、全身で叫びまわって遊ぶので、演じようと思っても、本音の声が出てしまう。また、近所づきあいの中で生まれる関係なので、家の事情も分かってしまう。素で勝負するしかない。丸裸のつき合いになってしまうのだ。喜びも悲しみも、元気な時も、憂鬱な時も、見せ合って、というより分かってしまうつき合いの中で生まれるのが、そもそもの「友だち」の出発、原点なのだ。つまり、群れ遊びのある時代は、友だちとは素でつきあう友だちで、キャラでつきあう友だちはなかったと言える。
群れ遊びが失われた時代は、友だちを求めるとき、からだをぶつけ合うことができないから、ことばでつきあいを探る。いわば、口先でさぐって、友だちを求める。本体の自分であるからだ全身は引いている。安全なところにまず自分を置いている。だから、キャラをつくる、つくれる、いやつくる他ない。全身をぶつけるつもりで求めない以上。たぶん、そういうやつは、重たすぎる、濃すぎる、ということで嫌われるはずだが。

「素でつきあう友だち」と「キャラでつきあう友だち」とどちらがいいか。
むろん、60代の私は、素でつきあえる友達がいい。素の自分が出せている方が楽だ。そして、素で自分をいつも出せることが、人間関係を深めていくのにいいのに決まっている。もっとも、友だちの数は少なくなる。
メル友が五百人で足りなくなって、千人登録出来る携帯に変えた、という少女の話をテレビで知って、えー、と驚いたことがあったが、これと同じで、キャラでつきあう友だちの関係は薄い。
しかし、今の若者は、朝井君が言うように「子どもにとって、『素』のままで過ごすことが楽だとは思えません。素を出していって、それが嫌われてしまったら他にすべがないじゃないですか。キャラをつくっていけば、たとえそれが否定されても、『もう一つある』と思えるからラクなんです」という。
この60代の私の「素の方が楽」と朝井君の「キャラの方がラク」の断絶の背後に、子どもの友だちづくりの環境としての「群れ遊び」の有る無しが決定的に関わっていると思える。なぜなら、キャラでつきあう友だちは、全身でぶつかることを避けたつきあい方。これに対して、全身でふれあい、ぶつけ合う群れ遊びを通した友だちづくりが、素でつきあう友だちづくりを可能にするからだ。

群れ遊びが喪失した時代のいまは、それだけ、今の子どもたちの環境は、キツクなっているということだ。
朝井君は言う。「学校生活が楽しく過ごせるなら、キャラを作っても全然かまわないと思います。子どもが自分を装っていることに気づき、親や大人が不本意に思うこともあるでしょう。しかし、ギリギリのバランスで成立しているのが子どもの世界。大人は首を突っ込まずに見守ってほしい」と。
いいでしょう。子どもの心には、大人は首を突っ込まずに、見守りましょう。「ギリギリのバランスで成立しているのが子どものこころの世界」を。その代わり、子どもが育つ環境を変えるために、首を突っ込みましょう。このような子どもの環境を作ってしまったのは大人。群れ遊びの場と時間を奪ったのは、大人です。そして、自分たちの子ども時代を思い起こし、このようなギリギリのバランスでしか生き切れない環境を変えることに力を注ぎましょう。子どもたちの群れ遊びの復活と息苦しくなっている受験競争現場の学校教育環境を変えるために。
いま、こういう運動、「群れ遊びの復活とともに教育を変える」住民運動、を立ち上げたばかりです。大人の人は、力を貸して下さい。

「群れ遊びの復活とともに教育を変える」住民運動
http://www.geocities.jp/zyuminundo/
http://www.geocities.jp/akiyoshisato7/
明良佐藤 記
 

群れ遊びから「福祉」の差別を考える

 投稿者:あきよし  投稿日:2011年 1月31日(月)22時05分19秒
返信・引用 編集済
  群れ遊びが「福祉の原点」というmasaoさんの指摘は意味深いですね。地域で「共に生きる」というところから来る知恵がそうさせるのだと思います。地域の近所の子どもたちが集まれば、大きい子、小さい子、トロイ子など、個性が様々です。その違いのある子どもたちみんなで、排除しないで遊ぶとすれば、特別のルールをつくって遊ぶという知恵を働かす、ということです。それがあたりまえ、ということです。
そうではなくて、クラブチームのように、能力のある子どもだけを集めようとすれば、近所の子だけでなく、遠くからも引き抜いてきて、集めるしかなくなります。しかも、近所のトロイ子は排除するしかない、ということになります。いま流行のクラブチームはそういうものです。群れ遊びとは、正反対です。
これを障害者が通う養護学校にあてはめます。養護学校のチーム編成は、地域から引き抜いて、健常者とはちがう能力の劣ったという意味で同じ子どもたちをチームとして、専門的な指導をします。これを福祉というのでしょう。
では地域にある小学校に通う子は、地域の仲間と一緒通えます。でも障碍を持った子はなぜ地域を離れた遠い施設に通わなければならないのでしょう。なぜ、地域の中で学べないのですか。専門的指導を受けるためにしかたがない、というのでしょうか。
なにを大事にするのかが問われていると思います。地域でみんなとともに生きることをあたりまえ、とうぜんの権利として大事にするのならば、専門家が地域の学校にやってきて、障碍のある子に専門的指導をする、という方式を採るはずです。なぜ、そうしなかったのか。健常者の子は地域の学校に、障碍者は特別の学校へ、というのは差別がある、ということです。
もうひとつ、地域から子を引き抜いて、特別にあつめる児童養護施設があります。これも福祉です。親が養育を放棄したために、見放された子が集められた施設です。たとえでいえば、子の面倒をみる人がいないという同質性によるチームといっていいでしょう。専門的指導を発揮できる保母さんや指導員がいて、集団生活ができる、ということですが、これも、なぜ、地域から引き抜かなければいけないのか、ということです。専門的指導が必要というなら、養護学校と同じに、専門家が地域に入っていけばいいのです。親が育てられない、養育を放棄したというなら、地域に養育の専門家が入っていけばいいのです。地域の中で、ともに生きることができます。なにも、特別の施設に引き抜いてくる必要はないと思うのです。なぜ、そうするのか。それの方が安上がりだから、というのでしょうか。
あたりまえのこと、地域で共に生きる、という原則を、安上がりだから、と崩してしまうのは、そこに差別意識があるということです。
あくまでも、ともに地域で生きる、という大原則を貫くために、群れ遊びでリーダーが知恵を絞って特別の方策をとったように、リーダーである大人が知恵を絞って、特別の方策を考えて実行して、共に生きてあたりまえ、を貫くことが大事なことだ、と自覚するのです。
どうも福祉とつくのは、特別のこと、やってあげているのだよ、という上から目線がありそうです。
あたりまえに、共に生きる、ということで、「福祉」ということばがなくなる方がいいように思えます。




 

「群れ遊び」から福祉支援の原点を見ます。

 投稿者:masaoメール  投稿日:2011年 1月28日(金)17時29分1秒
返信・引用
  私は、このページの代表の明良さんと一緒に「群れ遊び」について、一緒に活動をしていて、 職業は障害者施設で、サービス管理いわゆる、施設利用に当たっての個別支援計画等を作成し支援に当たっています。
 私の年齢は51歳で、子供のころは、塾通いをしている子供はほとんどいなく、どちらかというと学業が遅れた子供の一部が通っていました。放課後や休日は、さまざまな年齢が集まって暗くなるまで「群れ遊び」を満喫しました。
 今考えてみると、この「群れ遊び」の中に、障害者支援の原点を見る事が出来ると思っています。
 例えば、約20人ぐらい地域の子供たちが集まって草野球をやろうということになったとします。しかし、集まっている子供たちの中には、小さい子や、運動の苦手な子がいたりします。このままでは草野球の試合がうまく進まなくなる。そこで、集団の中にいるリーダー的な子供が、他のみんなと話し合いながら、特別なルールを作る。例えば、小さい子がバッターボックスに立った時は、三振なしでフェーアーエリア内にボールが転がるまで打つことができ、運動が苦手な子は5回ストライクまで打てるなど、工夫してゲームを楽しむようにします。このようなことが草野球だけではなく、さまざまな遊びの中に浸透していました。
 ここに福祉支援の原点を見ます。子供世界の自然発生的に出来た「自治」で見事に共生する事を果たすわけです。かつての「群れ遊び」では特定の子供を決して厄介者にせず、その存在を認め、そして弱者の存在を通して成長することによって意義ある存在と認識していきます。
 つづきは、また。ご意見をお願いします。
 

・「フィンランド式に学べ」の妙な歪み

 投稿者:あきよし  投稿日:2010年12月22日(水)10時51分22秒
返信・引用
  ・「フィンランド式に学べ」の妙な歪み

さっそく、PISAの調査結果が出た後、「フィンランド式に学べ」の記事が、朝日の教育面に出た(2010/12/12)。 「へぇー、やっぱり、フィンランドの教育が注目されているのだ。それにしても日本の教育改革がちっとも叫ばれていないのはどうしたことか」と覗いていて見て、その妙な歪みを見た。
フィンランド教育のもっとも本質的な姿はこうだ。
「多くの訪問者は、フィンランドでは何か特別学校や特別クラスをつくって、テスト対策にいそしんでいるのではないかと予想してやってくる。だが、訪問者たちが目にする光景は、授業中に立って歩いたり、ソファーで休憩している子もいたりする、なんとものんびりした授業なのだ。義務教育期間である十六歳までは、他人と比較するためのテストも競争もないという。」( 福田誠治『競争止めたら学力世界一』朝日新聞社4~5頁 )
つまり、一人ひとりの子どもの個性を生かす授業だから、一人ひとりの取り組みに任せる。早い子は進み、ゆっくりな子はゆっくり進む。先生は一人ひとりの子に沿い、アドバイスする。だから、いっせいに授業したり、テストの点数取りで競争などさせない。
日本の子どもが誰でもが夢見る「テストのない学校」なのだ。
ところが「最近では学校だけでなく、塾や地域の教育活動などでも、この国の勉強法に学ぼうという動きが見えはじめた」という朝日の記事によると「フィンランド式に学べ」ではこうなっている。
「進学塾の栄光ゼミナールは今年の小3の夏期講習で、フィンランドの教育に詳しい専門家が監修したテキストを使い、物語の創作に取り組ませた」「来年度からは小2の算数と国語で、答えが複数ある問題をはじめたり、自分の意見を書かせる問題を増やしたりする。余裕がある小2、小3のうちに論理的に表現できる力をはぐくめば、中学受験の勉強を始めた時の考え方の土台になるという発想だ。特に、複数の文章や資料を読み解いて意見を書く「PISA型」入試の公立中高一貫校をめざす子には、絶好の訓練になる」という。

なんのことはない。受験競争にその技術の一部を利用している、というだけ。
「フィンランドの教育には保護者の関心も高い」と記事にあるので、どれどれとのぞく。

港区の集会所に児童を集め、フィンランド大使館の一等書記官の妻で母国で先生をしている人が先生になって、数人ずつのグループに子どもたちが分かれ、算数の「□+□=7」の□にサイコロを振って、出た目を空欄に入れて式を完成させるなど、どの問題も遊びの要素が入っている。最初おとなしかった子どもたちは徐々に全身で喜びや楽しさを表すようになった。「日本でもこんな授業があれば、もっと楽しく勉強ができそう」と小5の桂田万詩さん。会社員の江口さんは、恥ずかしがり屋だと思っていた小1の長男が、いつになく積極的に動いているのを見て驚いた。「いつもこんな授業をやるのは日本的でないけど、こういう息抜きになりつつ勉強にもなる授業を日本でももっとやってほしい」と話した。

これもなんのことはない、だ。ただのイベントで、フィンランド式を体験して、いいなあ、と言っているだけ。なぜ、楽しい授業がフィンランドでできて、日本でできないのか。その背後には、競争のない、テストのない授業がある、という指摘すらない。そのためには、親は教育行政にそのような教育を実現させましょう、という提案まで認識が届いていない。朝日の教育欄の記者は、最低限、朝日新聞社から出している『競争止めたら学力世界一』を読んでから、フィンランドの教育についての記事を書くべきだ。

 

(無題)

 投稿者:あきよし  投稿日:2010年12月22日(水)10時47分13秒
返信・引用
  コメントありがとうございます。
「日本語にはリーズン (理性・理由・適当) 概念がないので、リーズナブルな (理性ある・理由となる・適当な) 答が出せない。」
「日本語脳では、「今ある姿」と「あるべき姿」並置は不可能であるから、「今ある姿」が切実な要求となれば、「あるべき姿」は脳裏から消えてなくなる。それで、この国の万事が気違い沙汰となる。律儀な日本人のだらしなさである。」の指摘、もっともです。「律儀な日本人のだらしなさ」とは名文句ですね。
「理性の獲得」を日本人はどのようにしたらいいか、が課題であることは、同意です。
そのために、「英語を学んで日本語思考の拙さを補えば、日本人は鬼に金棒の民族となる。英語の普及を図るために、英語をわが国の第二公用語とすることが望ましい。」との提案ですね。一理あると思います。
私は、日常会話の日本語によって、考える力と論理力を身につける方法を提案しています。第一公用語からの考える力です。
いまの教育が子どもたちから「考える力」を奪っていることから、群れ遊びの復活とともに教育を変える住民運動を。http://www.geocities.jp/zyuminundo/
自分を見つめる、考える方法から、流されない、一人でも立つ力を伝えようと思っています。http://www.geocities.jp/zyuminundo/
 

(無題)

 投稿者:noga  投稿日:2010年12月22日(水)10時04分10秒
返信・引用
  レミング、、、、、この小さなネズミの何百万という大群が、4年ごとに狂ったように、ノルウェーの崖や海岸から海にはいっておぼれ死ぬという話がリーダーズ・ダイジェスト社の に書いてある。
私は、敗戦直前のわが国における一億総玉砕の話を聞くたびに、この小さなネズミの話を思い出す。
半ば本能にも近いこの種の日本人の行動を回避する手段はないものだろうかということである。
日本語の特質は、団結性 (solidarity)、信頼性 (trust)、仕事熱 (work enthusiasms)、および 忠誠心 (loyalties) を高めることである。
日本人は、日本語のおかげで国を技術立国となし、経済大国とした。細工物の工夫と序列協力による民の力が大きくものを言ったのである。
だが、日本語にはリーズン (理性・理由・適当) 概念がないので、リーズナブルな (理性ある・理由となる・適当な) 答が出せない。
リーズナブルな現実対応に行き着くこともなく、一億総玉砕の危険性もある。
アンリーズナブル (理不尽) な結論の下に、団結性、信頼性、仕事熱、および 忠誠心を強く求めれば、国民は「聞け、わだつみの声」の状態になる。
つまり、 の中で、渡辺一夫は「不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思ひ、不自然を自然と考えねばならぬやうに強ひられ、、、、、」と書いている。
どうしてこのような倒錯が起こるかといえば、「不合理、いや、不自然」が「今ある姿」であるのに対して「合理、すき、自然」は「あるべき姿」の内容である。
日本語脳では、「今ある姿」と「あるべき姿」並置は不可能であるから、「今ある姿」が切実な要求となれば、「あるべき姿」は脳裏から消えてなくなる。それで、この国の万事が気違い沙汰となる。律儀な日本人のだらしなさである。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、 (The Enigma of Japanese Power) のの中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)
もしもこの先、我々に理性が獲得できず、理性判断が不可能な状態が続くのであれば、我々日本人は理不尽な答えに対して現状打開の方策もなく、ただただ耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び続けることになる。
逆に、英語を学んで日本語思考の拙さを補えば、日本人は鬼に金棒の民族となる。
英語の普及を図るために、英語をわが国の第二公用語とすることが望ましい。
 

PISA・国際学習到達調査を考える

 投稿者:あきよし  投稿日:2010年12月22日(水)09時30分33秒
返信・引用
  ・いっこうにない、抜本的に変える「新しい教育」への視点。子どもの息苦しさをいつまで無視しているのか。――09年のPISA( OECDの国際学習度到達調査 )試験で、日本少し持ち直す、を考える――

日本の教育を考える上で、見逃せない調査が発表された。
 12月8日の新聞各紙は、09年のPISA( OECDの国際学習度到達調査 )試験の結果を大々的に公表している。朝日、毎日、東京新聞各紙は一面トップに大々的に取り上げ、読売も一面トップのウィキリークス創設者逮捕と肩を並べて、左紙面半分のトップにのせている。それだけでなく、中面の教育欄はもちろん、社会面や社説等である。いかに、日本の教育において、このPISAの調査結果が大きなものかを感じさせる。
「読解力八位に回復 学力低下に歯止め」( 朝日 )「日本、読解力改善 理数持ち直す」(毎日) 「日本の15歳 読解力改善」(読売) 「日本の学力 低下歯止め」(東京)
このような各紙のトップ見出しになっている。
この国際調査は、00年から03年、06年と三年ごとに、義務教育終了段階の子どもを対象に世界共通問題を出題するOECDの国際学習度到達調査で、09年の今回は、65カ国の15歳男女計47万人が参加した。( この数におどろく ) 日本は00年度から参加し、理数でトップ級から転落するなど、過去二回の結果で、学力低下が明白になり「PISAショック」と呼ばれ、始められたばかりの「ゆとり教育の見直し」が急遽行われて、現在再び教科書が厚くなっている、という変化をもたらした国際調査なのだ。
文部科学省の幹部の安堵の表情の弁が読売に載っている。「改善がみられてよかった。下っていたら、政策の全面見直しだった」と。この弁は、大変おかしいが、現実には、それほどの威力を発揮する調査ということだ。
09年の調査結果、とりあえず五位までのせると、
    読解力    科学的リテラシィー  数学的リテラシィー
一位 上海      上海         上海
二位 韓国      フィンランド     シンガポール
三位 フィンランド  香港         香港
四位 香港      シンガポール     韓国
五位 シンガポール  日本         台湾
注 リテラシィー( 読み書き能力。また、与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力。応用力。 )

このほか日本は、読解力は八位。数学リテラシィーは九位である。
これを見ると、今回新たに加わったアジア諸国がいっきにトップクラスに入って、欧米諸国では、フィンランドだけ。ここには、スウェーデンも入っていなし、世界一幸福度が高いというデンマークも入っていない。
では、教育先進国と言われる北欧の教育は、フィンランドをのぞいて、アジアの教育に負けたのか、という評価も出てくるが、教育には勝ち負けはない。本質は、教育をうけるすべての子が生き生きとし、個性がのばされ、成長して、社会に出て活躍する、ということにある。
その点から見ると、フィンランドに代わって、三冠をとった上海市はどうだろうか。
OECDでは、非加盟国については『地域』参加を認めていて、今回、上海市が参加した結果、すべての分野でトップに立ったわけだが、その理由は何か。
新聞によると、上海では高学歴化などによる就職難で、受験競争が年々激化、中高では毎月のようにテストが行われ、期末には上位者リストが校内に張り出される、という。教師にとっても、有名校への進学率が高まるほど手当や副収入が増えるため、成績アップが至上命題。一人っ子政策が教育熱をあおっている社会的要因。その一方、成績を苦にした生徒の自殺増などの弊害も浮上している、という。
ただこれだけでは不十分な分析だ。受験競争が過熱になればなるほどいい、ということになりかねないからだ。
他の新聞にこうある。「上海が参加すると聞いた時からトップになると思っていた」という日暮有明教育短大準教授はその理由をこういう。05年以前は、中国では、受験偏重の知識つめ込み型の教育だったが、05年の新教育課程基準において、自ら考えて問題を解決するPISA型の学力観に転換して、中でも上海市は国の基準に上乗せして「上海カリキュラム」と呼ばれる独自の取り組みで学力を伸ばしてきたという。しかも、経済力のある上海市民の教育熱は高く、全国平均の二倍を超す、という。
これを聞くと、なるほどとうなずける。しかし、激しい受験競争の中、勝った者はいいが、敗れたものの個性がつぶされ、劣等感が増幅する姿が十分想像できる。
また、韓国も高い順位だ。日本よりも激しい受験競争社会というが、なぜ、高いのか。
韓国では、日本以上に大学ブランド力が将来を左右する国で、受験競争が過熱。小学生から私塾通い。予備校、塾通いが社会問題化するほど、子どもたちは正規の授業以外にたくさんの勉強をしている。放課後の勉強時間は日本の二倍以上。フィンランドの三倍近くある。高校生となると、ほとんどの者が深夜まで学校や塾の授業を受けている。日本の高校生の半数が家庭学習ゼロというのと大違いだ。大学入試に思考力を問う論述問題が出るため、塾で対策を行い、結果的に、PISA型の学力も養われている、という。
「なるほど」である。知識つめ込み型の学習ではないやり方もしているわけだ。それで高い、と。
やはり初参加のシンガポールも高いが、天然資源に乏しい同国では、能力主義に基づいたエリート教育に力が注がれ、優秀な生徒を選抜する試験は、小四、小六、中四、高二で実施され、一度でも落第すると、大学進学の扉がほぼ閉ざされるので、親も必死だ、と報告されている。
「やれやれ」である。今回上位に躍り出たアジアの教育状況を見ると、げんなりする。これでは、一部のエリートはいいが、大半の子の個性はつぶされ、劣等感を抱いて大人になる姿が目に見える。韓国、中国とも学力を苦にした自殺がある、と報告されている。日本ではいまは、学力以前のいじめ自殺が浮かび上がって、子どもたちの状況は最悪である。
教育先進国といえる北欧の国の教育は、受験競争で学力を伸ばそうという考え方とは、根本的に質が違う。「一人ひとりの個性を伸ばす」ことに重点があり、その結果、個性を比較することはできないことから、一斉授業、一律テストの点数つけは否定されている教育で、個人の成長評価を見ていく教育になっている。したがって、一人ひとりに教育の目が届いているので、落ちこぼしをしない教育になっている。大学受験入試もなく、高校の卒業資格がそのまま大学入学資格となっていて、大学受験戦争はないのである。つまり、成熟社会に必要な「新しい教育」に舵を切っているのである。
このような北欧教育の情報は、たくさん入っているが、どうも新聞記者さんたちには、頭に入らないらしい。各紙の論調を観測した記事が毎日 (12月12日) に載っている。
読売は「ゆとり教育路線の見直しや、読書活動の普及などに取り組んできた成果だろう。学校現場は気を緩めず、学力向上を図ってもらいたい」という。
日経は「PISAで学力の全体像をつかめるものではない。得点に一喜一憂するのも本末転倒だ」
朝日は「この間のどんな努力が結果に結びつき、まだ何が足りないのか。いまこそ詳しい検証と整理が必要だろう。未来に向けて腰を落ち着けて、学びの質を変えてゆくときだろう。」
毎日は「順位ばかりが注目されたが、上位の国と比べて日本は成績の良い子と悪い子の二極化が目立った読書を趣味とする生徒も少ない。PISAから浮かび上がる課題を現実の教育にどう生かしていくのかが問われている。状況を大きく前進させるには入試改革が不可欠だ。思考や表現を重視する授業を普及させるには高校、大学が手間をかけた試験を避けてはならない」と言う。

このよう論調を見ると、子どもたちの教育を根本から変える「新しい教育」への視点が全然ない。毎日が「成績のよい子と悪い子の二極化」を指摘していいところをついているのだが、「状況を大きく前進させるには入試改革が不可欠だ。思考や表現を重視する授業を普及させるには高校、大学が手間をかけた試験を避けてはならない」と、相変わらず受験競争を容認している範囲を出ない。
なぜ、北欧ではあたりまえになっている「一人ひとりの個性を生かす教育」「テストのない学校」「大学入試試験のない制度」という「新しい教育」への舵切りを提言しないのだろう。小手先の改革でなく、抜本的な教育改革しか子どもたちの苦しい状況を救う手立てはないのに、だ。
それから一週間たった朝日 (12月19日) に「『PISAに揺れる各国』――教育政策の変化 シンポで報告」なる特集が教育面に載った。日、韓、豪の研究者が集った。どれどれ、とのぞいてみると、やはり、「新しい教育」の視点は出されていない。日本と同様にPISAショックに陥ったドイツの例が上がっている。ドイツは午前八時から午後一時の「半日学校」が多かったのが、ショックの結果、日本と同じに授業時間数が増え、全国の四割が「終日化」した。多くの移民をかかえるドイツでは、階層問題がPISAの成績低迷の一因と考えられる、と指摘している。( 日本は移民をかかえていないのに、二極化しているのはより問題が大きい )
 「日本の教育界が熱視線を送るトップ常連のフィンランド」――こう書かれている。日本の教育界は十分すぎるぐらい知っているのだな――について語られているが、「PISAの結果が良かったために、教育政策に対する危機感が共有できないというネガティブな側面がある」という指摘を載せている。新しい教育に改革して、うまくいっているフィンランドになぜ「危機感」が必要なのだ。何かヘン。もっと根本的な危機感が必要なのは日本だろ、といいたい。
 日本より上にある韓国の研究者が反省点を言う。「韓国の親たちは一つのモデルしか持たない。『勉強しろ、勉強しろ』だ」学力テストで一定の点数に達していない生徒には補習が義務付けられており、保護者が支払う補習費用の多くを国が助成しているという。「韓国はもう少しゆとりを持ったほうがいい。日本の教育水準はトップレベルで、悲観することはない」と同情されている。
 日本は韓国より、底上げを重視しない、予算も出さない、という点で、無策だ。韓国がPISAで上位に行くのは、このような底上げも効いているということのようだが、受験競争加熱で、自殺者が出る状況はまったくよくない。いづれ成熟社会としての「新しい教育」への転換が必要になる視点はもってもらいたい。
 文科省の課長は「PISAも指標の一つ。あまり踊らされないようにしたい」という。また、京大の松下教授も「PISAはあくまでも筆記テストだということを忘れるべきではない」と強調し、教師と子どもの関係や、子ども同士の関係を通じての学びには「数値で測れない論理」も働いていると話した、と記者は言う。
 PISAへの批判は大事だ。しかし、もっと大事なのは、その批判を通して、日本の子どもの息苦しさをどのようにしたら解放してあげるかまで、考えつくして、教育改革を提唱することだろう。松下教授がいう「教師と子どもの関係や、子ども同士の関係を通じての学びには「数値で測れない論理」も働いている」という指摘こそ、北欧であたりまえになった「新しい教育」の姿なのだ。日本の教育は「子ども同士の関係を通じての学び」をむしろ受験競争を通して阻害しているのは、周知の事実ではないのか。そういうのなら、受験競争の廃止をなぜ、提言しないのか、といいたい。
 最後に締めくくりとして、オーストラリアのトムソン博士が提言する。「21世紀は生涯学習の時代だ。学習する信念、意欲の強さも、重要な要素になってくる」のことばを載せて、特集は終わっている。
生涯学習はそれこそ北欧の「新しい教育」の軸である。いつでも学べるシステムができている。だから、高卒でも、すぐに大学入学せず、社会に出て働き、学ぶ課題ができたときに大学入学をして高い意欲で学ぶことができる。だから、受験競争ということとはまったく縁遠い。就職でも、新卒採用に狂奔する日本の現状とは、まったく遠い豊かな世界で働いているのが、彼らだ。
こんなことは、教育に縁遠かった大工で食っていた私が、「群れ遊びの復活とともに教育を変える」運動を立ち上げるために、勉強しはじめて、数か月の間で自覚にいたったことだ。なぜ、長い間研究し、それで飯を食っているプロの学者が「新しい教育」を提唱できないのか。不思議に思う。
 失礼を承知でその理由をいえば、研究の大元に「子どもの息苦しさ」を見据えていないのではないか。そして「新しい教育」の提唱とは、自分がいまよって立つ、いまある学校ピラミッドを壊すことであり、文部省を変えることであるので、容易に言えない。つまり、自分に覚悟がない、ということではないのですか、といいたい。
その結果、子どもたちは依然、息苦しさをかかえてしのぐしかない、そういうことなのか――

 

中絶とできちゃった婚

 投稿者:あきよし  投稿日:2010年12月21日(火)10時41分25秒
返信・引用
  いつも右寄りの論調を書く産経らしいですね。性教育を否定して、現実に若者が性交渉で中絶をして傷ついていることをどうするのでしょうかね。
「中絶天国」と言われた日本の現状はどうなっているのだろうか、とネットで調べましたら、国際比較ではこうです。

女性千人当たりの合法妊娠中絶
・・・・・・・・・総数 二十歳未満
ドイツ・・・・・・6,2    6,7
イタリア・・・・・9.0    7.1
フィンランド・・・9,1    14,1
ニュージーランド・16.8    26.5
スウェーデン・・・17.7    25.4
ロシア・・・・・・40.3    28.9
日本・・・・・・・ 9.9    8.7

2006年の国連年鑑が中心ですが、これをみると、意外と日本は低い、と思えます。しかし、二十歳未満の中絶総数は三万件を超えていて、とても少ないとはいえません。ここで書いたデンマークの統計がないのですが、北欧のフィンランド、スウェーデンがかなり高いのには、少し驚きました。性教育が徹底していると思われますが、それでも中絶が多い、ということですね。
その理由を考えてみると、一つは、結婚前の男女のつきあいで、日本以上に性交渉があたりまえになっている、ということでしょう。そして、もう一つは、避妊に失敗した場合、『できちゃった』ことが分かった場合、急きょ、とりつくろって「できちゃった婚」をする日本とは違って、はっきり、中絶する、ということだと思います。つまり、安易な妥協はしない。はっきりと自分の意志を貫く、ということでしょうか。だから、生まれてくる子は皆、親に「望まれてうまれてくる子」となると。
つまり、自分の理性と責任で子を産み、育てる。
一方日本では、まだなりゆき任せ、自然に任せる、が多いのでしょう。その結果「できちゃった婚」が増える、と。
 

(無題)

 投稿者:remusuimin  投稿日:2010年12月21日(火)09時16分56秒
返信・引用
  産經新聞をよく読む機会があるのですが、東京都日野市の養護学校での性教育に対し、口をきわめて悪罵、ののしりの声を掲載しておりました。子どもの将来をどのように考えるのか,いつまでも子どもでいられる子どもはおりませんから、正確な性に対する知識をリアルに知ってもらうことが必要です。
性は恥ずかしいもの、隠すべきものといっております。また,男らしさ、女らしさという時代遅れな尺度を復活させる論調がにぎやかです
 

レンタル掲示板
/2